統語論と意味論

5年間研究をしてきていまだに明確でないことがある.ちなみに非常に面白くない話なので続きは普通,読まないでよいです.

意味論と統語論を隔てるのはなにか?

通常「他動詞→名詞句」のような規則は文法と呼ばれるのだが,「食べる→食べ物句」や「飲む→飲物句」(ここで食べ物句,飲物句は便宜上,食べ物や飲物という概念に含まれる事象を含む)とどこが異なるのだろうか?
 極私見でいうならば「規則の粒度・精度」の差であるかのように感じる.もちろん,後者には明らかに意味的な要素が含まれ,前者には意味的な要素が含まれていない.しかし,これは裏返せば「食べる→食べ物句」が適用される単語を「食べ物」という意味を持つものとしましょう.と考えることもできるのではないだろうか.
 すなわち意味論と統語論は規則の粒度の差である気がする.より粒度が細かい規則によって意味が定義され,同時に意味によってより細かい規則が産まれる.
 これは発達におけるカテゴリの外延定義と内包定義の関係に似ていると思われる.すなわち,ある意味で類似した事象の集合によってその集合が持つ特徴が統計的に決まる.この特徴を保持する事象を集合のメンバとしてみる.このままだと外延から内包が決定するようだが,最初の「ある意味で類似」の部分がすでに特徴に依存しているとすれば内包が外延を決定しているという見方もできる.
 曖昧で論理的に厳密な表現ではないが両方のプロセス「外延的にカテゴリを決定する」「内包的にカテゴリのメンバを判断(計算)する」は相補的に働いているのではないだろうか.
 問題をここで振り返ると,限りなく意味(注目する特徴)を削ぎ落とし,抽象化したカテゴリの関係を記述する規則を文法と呼び,具体的で制限されたカテゴリの関係を記述する規則によって注目される特徴を意味と呼ぶのだろうか.
 この考え方はニューラルネットワーク屋さんにとっては非常に便利で,認知科学の観点からはすっきりした考え方に思える.また昨今の発達・心理の論文からこじつけでないレベルで説明できる気がしている.
 答はまだ無い.まだまだ追いかけるところ.誰か言語屋さんでご存知のかたいらしたら教えてください.